潰瘍性大腸炎→大腸全摘出したanokaのブログ

難病や日々の事を書いてます。よろしくお願いします。

UCになるまで

こんにちは、anokaです。

 

 

ちょっと今日は重たい話をします。

入院していて、時間もあるので

ここでしっかりまた私の心と向き合い、前を向くために一度後ろを振り替えって話します。

 

 

完全に、私の悲しみに向き合う文章になっているので気分を害される方もいるかもしれません。

 

なので悲しいのは見たくない!って人は本当にバックしてください!

 

私の家族の冷たく、悲しい話が長々と続くので

そーゆーの無理!って方は読まないでください。

 

ただ読んだら私がTwitterでも前回のブログでも記した父のラインも納得するかもしれません。

 

 

行きます。

 

まず、家族構成は

父、

母、

(5年前くらい?に離婚)

長女

次女

三女

末っ子のanoka(現29歳ですが30歳の歳になります。)

 

4人姉妹です。今でも かなりびっくりされます。

が、anokaの名前の由来は

 

姉3人の名前の一文字目を長女から順に並べたもので、本名とは一切関わりありません(余談。笑)

 

本名にしなかったのはTwitterで潰瘍性大腸炎のことを話したかったし、その人たちと関わる空間にしたかったからです。

 

そしてその頃は姉たちとは良好な関係だったから。。。(´・ω・`)

 

_______________________________

 

 

入院生活も内科も入れると何回目?と、言うほど多くなってしまった私。この潰瘍性大腸炎という難病にならなければ、とても考えられないほど私の身体は健康そのものでした。

 

仕事をして、休みは小学生にバスケを教え、自分も鍛えるために子供たちと声を出して動き回ってました。個人的に社会人バスケのチームにも入り試合にも出たりしました。

 

けれど予兆はありました…。

 

例え、この病気は難病であり、原因は医学的に証明されていなくても…

 

anokaの家は両親が不仲で

幼い頃からそれは当たり前でした。

 

 

そしてそれが爆発したような家族の事件が起きて、「こんな家とっとと出てやる!」と躍起になって働き、その数ヵ月後にこの病気が発覚したこと…

 

なんの因果関係もないかもしれない…けど

私のストレスは最高潮だったんじゃないかな…と思うのです。

 

その爆発した事件は

 

親しい人の死(祖母でした。)

 

 

母はとてもショックを受けていました。

 

母は山形出身で祖母も山形に居ましたから、体調を崩した、と知らせが入ったときはすぐに駆けつけました。

 

長女(母)でかなり歳の離れた弟がいる母は、幼い頃の夢を叶え看護師になり、弟の学費を出していたそう。

 

 

anokaも物心ついた頃から

母が常に山形の実家を気遣ってなんらかの援助をしているのは分かっていました。

 

また昭和の頑固オヤジを絵にかいたような祖父から

(大正生まれなのでかなり長寿!!表彰もされたそう、今も健在。これも余談)。。

 

祖母(おばあちゃん)が守ってくれたの、といつも口にしていた母は、とても母親っ子だったでしょう。

 

そして末っ子だったanokaもその母が大好きでした。

 

人見知りで、母以外は受け付けないくらいギャン泣きしていたそう。(小さすぎて記憶にないanokaです。)

 

 

anokaの母はしっかりしなきゃと思う反面、とても祖母を心の支えにしてたのは子供の私でさえ容易くわかることでした。(もちろん、祖母が亡くなるとき私も21歳なので当然かもしれませんが…)

 

その祖母が倒れたのですから、母が山形に行くのは当然。私達姉妹は既に成人していたし、anokaは専門学校卒業だったのでもう働いていました。

 

ちなみにその時長女と次女はもう結婚して家に居なく、実家にいるのは両親、三女、anokaでした。

 

 

普通ならば…誰が母を責めたでしょう。

祖母の回復を願わない人がいたでしょうか…

 

残念なことに、anokaの父は激怒したのです。

 

母に向かって(多分メールを受け取っている。離婚で優位に立つために残しておきな。と姉が助言していた思い出があります。)

 

直接言えない怒りの矛先は実家に残っているanokaに向かいました。(三女の仕事は帰りが遅かった)

 

 

父親は多分、アルコール依存症。(本人は認めてないが、anokaが幼い頃から毎日ウィスキーを一本開けてしまうほど飲むと、暴言もヒートアップする様を何度もみているし、この発言も飲酒済み後の発言です。)

 

 

「家を空けるなんて嫁の癖に、母親の癖になにをしてるんだ!考えられない!お前も覚えておけ、結婚したらその家の人間になるんだから女が帰るなんて絶対しちゃいけないことなんだ!(祖母が)倒れるのは当然だろう、歳なんだから。肺がんもタバコのせいで自業自得だ!」

 

(確かに祖母は喫煙者で肺がんにより亡くなりました。)

 

私はただ時代遅れも甚だしい、

 

てゆーか、お前もアルコール依存症のくせに…

 

ただ、その心無い言葉に、態度に

 

怒りを返したのを覚えています。

 

「お父さんにとっては他人でも私にとっては血の繋がったお祖母ちゃんなの!その人が苦しんでるのに悪口を言わないで!!それに、お父さんが言うことを実行したら、私もお姉ちゃんも嫁いだらお父さんの葬式に行くな、ってことだよね?いいんだよね!?」

 

泣きながら必死に訴えたのを覚えてます。

(結婚したら義理親になると言いますが、父にそんな話は通用しないと諦めてました。ちなみに父方の両親はanokaが産まれる前に他界、私は母方の祖父母しか知らないので余計に腹が立ちました。)

 

父親は売り言葉に買い言葉、酔っぱらってたのもあるでしょう。

 

「いいよ!べつに!」

 

その日は私は話にならないと思い、自分の部屋に逃げ込みました。

 

 

ずーっと泣いていました。

母を、祖母を侮辱された悔しさ、怒り、悲しみ

父の最期を看取らないと言ってしまった罪悪感…

 

私はその頃、アームカッターでした。

自傷行為というヤツです。

 

 

右腕、左には腕に収まりきらなかったリストカットの跡も今も消えずに残っています。(右利きだから切りやすい)

 

その日は泣いても苦しみが消えずにただこの苦しみから逃れるためにいつものカミソリを手に取り、かなり深く切りました。

 

(私が切ってしまう理由は両親が揉めたり、自分と両親がぶつかったとき。やり場のない苦しみを、痛みに変えていた感覚でした。そしてその傷を手当てすることにホッとする…。異常な行動ですが、当時わたしはこうやってなんとか心を守っていたのだと。振り替えって思います。)

 

ベッドが血だらけだったので驚きました。深く切った記憶もなく、いつも通り止血してガーゼして寝たのに…。

 

思い出しても痛みの記憶すらないんです。

それくらい気持ちが参っていて

ただ無意識に深く切ってしまった…。

(いつもは痛みの記憶もある)

 

なので朝起きて傷跡を見てビックリしたくらいです。自分でしたのに…。

(その後、いつからかは忘れたけど自傷行為はもう何年もしていません)

 

 

 

 

その日から何日か後、祖母は亡くなりました。

母が朝起きて、祖母起こしに揺すったらもう亡くなっていたそうです。

あの時、おばあちゃんが苦しまずに、眠りながら逝けたならいいな。今でもそう思います。

 

私達、孫は数ヶ月前に会いに行けていたし、

 

何より祖母は最期の何週間を家族4人で過ごせたのだし。。。

 

葬儀も、私達孫も、山形の親戚も集まり、たくさんの人に愛されながら送れたと思います。

 

父も来ましたが、仕事と言ってすぐ帰りました。

 

 

そしてその頃から私はどんどん変な方向へ行きました。

一時眠れず精神科にかかったけれど

「親しい人との別れのあとに大きな決断は辞めておいたほうがいい」という忠告を無視して自暴自棄になりつつ、

 

3年以上付き合っていた恋人と別れ、仕事も辞め、人様に誇れないような恋愛(というのか?)をしました。(一夜かぎりとか…)

 

私は新しい仕事場が決まり、そこはとても忙しい現場で

少々ブラックでした。

 

でもその忙しさに躍起になっていました。

家に居なくてすむし、早くお金を貯めて家を出よう!っと思ってたからです。

 

 

それでも両親の不仲は続いていたし、ストレスは溜まる一方だったと思います。

 

離婚も父が言い出したようですが、後先不安な母の方がなかなか応じず、二人の子供を味方につけるための戦いが始まりました。

 

私達は関与しない。と姉妹で決めてました。が、、、

 

長女、次女は家が違うから簡単にできたのですが、私と三女は実家暮らしだったのですべてをシャットアウトすることは難しかったのです。

 

この頃、私も23歳になるな~と思っていた矢先、痔のせいで出血が見られるようになりました。恥ずかしながら病院に行き、切れ痔にいぼ痔だった私は薬をもらって過ごしてたのですが…なんか白いのも混ざってる…出血も止まらない。熱も出てきた…

 

そして内視鏡検査の結果、【潰瘍性大腸炎】を宣告されたのです。

 

だから症状が出始めたのは22歳の最後くらいで、診断名が出たのは23歳というややこしい状態だっんです(笑)

 

発症はゆるやかでしたが、かえりみず、仕事をしていたら

 

一時熱も治まらない、歩くだけでお腹に激痛が起こる再燃状態になり。2週間ほど会社を休み、実家ではなく次女の家で休養させてもらってました。

 

 

まだ軽傷だったので、大学病院で専門医に診てもらい、ペンタサとプレドネマの注腸で見事寛解期を迎えました。

 

ここからが、長い戦いになるとは思ってもいませんでした。

 

はい!とゆーことで

今回はここまでにしたいと思います。

 

自己満ですが、

病気になるまでを振り返ることができ、ひとつずつでも自分の闇と向き合うことで

前に進めたらとおもいます。

 

 

それでは、ここまで読んでくださったかた!

本当にありがとございました!!!

 

anoka☆★☆